理解力とは?「人が「読みました!」という言葉を信じてはいけない」

  • 2019年12月26日
  • 2020年5月29日
  • 理解力
  • 33view

どうも、「ホントのメディア」~自由人のための起業・フリーランス・副業塾~運営者の武信です。(No277)

僕はブログ記事などを、人に読んでもらうことがあります。

そして最近、つくづく思うのですが、「読みました!」という人の意見を、鵜呑みにしない方がいいと思うようになりました。

その理由を詳しく説明していきます。

興味がある人は続きをお読みください。

理解力・読解力の肝となる視点の記事です。

1 人が文章を真に理解するとき。

僕のブログ記事を「読みました!」と言う人でも、きちんと理解していないことに遭遇し、僕はその言葉を怪しむようになりました。

例えば、僕の構想案「日本論文プラットフォーム」やその他の複雑な記事は、おそらく、読んだという人でも、「僕の思っているようには読んでいない可能性が高い」ということが判明したのです。

僕のブログ記事の多くは、けっこう、ちゃんと理解されていないことが多く、読んだ人に感想を聞くと、書いてある内容でも質問してきたりします。

書いてあるのに、それを質問したり、聴いてくるということはその部分をその人は飛ばしたか、ちゃんと理解していないか、覚えていないのでしょう。

または誤読されたりもします。

そして、個別に、会話などで解説すると理解されることもありますが、実はその理解さえも怪しかったのです。

個別に解説すれば、さすがに僕の意図は伝わっていたかと思いきや、伝わっていなかったのです。

つまり、人が「僕の文章の意図などを理解した!」と言っていたとしても、相当怪しいのです。

現代文高得点層ですら、この有様だとしたら、現代文という、「理解力に重点を置き、アウトプットする前にちゃんと人の文章を理解する科目」という性質さえ、怪しく思えてきます。

僕が思うに、人がちゃんと理解するときというのは、「他人の文章を要約したり、模写したとき、またはアウトプットしたときなのではないか?」と考えています。

僕も、ビジネス書を相当、多読してきて、ちゃんと理解したというときは、「文章を写したときか、要約したときか、文章に対して意見を言うアウトプット行為のとき」です。

そこまでやって初めて、人の意見をちゃんと理解したと言えるのでしょう。

それまでは何となくうろ覚え状態のときも多いのです。(特に、複雑で前提知識が少ない内容の文章のとき)

つまり、マーク式で解答させたり、「ただ読みました!」という人の意見は大して当てにならず、本当に理解させるには「要約、模写、アウトプット」が必要ということになるのです。

ここから、現代文なんて科目は大して効果がない、または本来の役目を大して果たしておらず、それよりも「小論文で要約させたり、アウトプット行為をさせる」、つまり、僕の構想案である「論文プラットフォームで書く行為をした方がいい」ということになります。

やはり、受け身の読むだけの行為だと、記憶の定着率も低いですし、ちゃんと理解したか?も疑問符なのでしょう。

さらに、読み書きだけでなく、話す聞くの際も以下のような状態が理想です。

人に理解したかどうか?確認する最適の行為は、説明した後、その人に「要約させて、説明させる」ことです。

そこで、その人がきちんと理解していて、記憶していたら、ちゃんと再現して説明できるはずです。

それができなかったとしたら、理解していません。

このように、人の理解力はかなり怪しく、ただ説明だけの指導では、効果が弱いのです。

たまに、人に説明だけしたら、もう完全に相手に全部伝わったと思い込んでいる人がいて、「何でわからないんだ!」と怒る人もいますが、それは一度の説明で完全に理解できる人も少ないですし、相手に説明させるという確認行為をしない指導の仕方も悪いのです

2 ちゃんと理解するつもりなら、要約は最低限しよう!

まず、ただ、流し読みしている人に言いたいことがあります。

そして、分かった気になっている人に言いたいことがあります。

その人の言い分をちゃんと理解したのなら、要約して表現したりして、きちんと理解してますよ!とアピールしましょうということです。

要約して伝えてくる部下や人がいたら、上司なども「こいつはちゃんと理解しているな」と安心できます。

そして、上司や説明する側も、相手の要約の説明を面倒臭がらずにきちんと聞きたいところです。

説明しっ放しで、その人の指導は終わったわけじゃありません。

さらに言うと、要約させて、理解はさせても、その後の実行段階「できる」「身につける」まで至るにはその部下の努力が必要です。

しかし、理解さえしてしまえば、後はどう努力し、身につけるか?の段階になりますから、上司としても、そこまで細かい、繰り返しの説明は要らなくなります。

よく言われますが、社長などの理念は、何百回と部下などに伝えないと、浸透しないとされます。

そして、部下に社訓などを読ませる企業もあります。

社訓を読ませるのは、アウトプット行為であり、身体になじませるためでしょう。

もちろん、単に受け身で、やる気なく、読み上げているだけでは効果は弱いです。

僕が思うに、部下によっては、社訓やマニュアルや上司の説明などを理解させた後に、部下の要約、さらに+アルファの改善意見なども聞くようにすると、部下のやる気が出たり、やらされ感が減るのではないか?と仮説を立てています。

3 そもそも自分の中にその概念がないと、理解できない仮説。

また、僕の仮説ですが、そもそも自分の中に文章に書かれているような概念やアイデアについての知識がないと、それを心底、理解できないのでは?というモノがあります。

つまり、まったく想定外、想像外の内容の文章(または前提知識が乏しい分野の内容)は、ちゃんと理解していないか、理解度が怪しいということになるのです。

こういう場合こそ、特に、注意を払い、人に「要約させる、説明させる、模写させる、アウトプットさせる」のが大事ということになります。

4 真剣に、自分事として読んでいない仮説。 

さらに仮説を述べます。

現代文高得点者の名誉?のために書いておきましょう。

もしかしたら、現代文高得点者は理解力はあったかもしれません。

ですが、想定外の自分の中にない概念やアイデアだった、または自分の価値観と合致しないアイデアだったので、スルーしたり、自分に都合のいいように情報を読み替えて、理解した可能性があります。

または、試験に合格するためという目的があるときは、本気になって読み解こうとしますが、僕のブログ記事程度の文章になると、真剣に、自分事として読んでいなかった可能性も残ります。

僕は、毎日、大量の記事や本を読んでいますが、全て、自分事として、関係あると思い込み、読んでいるので、理解度が高く、記憶の定着率も高いほうだと自負しています。

加えて、気になった記事は、要約したり、模写したり、アウトプットしているので、余計に理解度や記憶の定着率が上がっていると思われます。

しかし、現代文高得点者は僕のブログ記事を真剣に読んでいなかったため、ちゃんと理解していなく、記憶もヌケモレが多く、または記憶の定着率も低かったので、僕が何回も個別に説明していたのに、僕の構想案の理念や細かい案すら、忘れていたのだと推測できます。

つまり、その現代文高得点者は一時的には理解していた可能性があり、その後の記憶の定着率が低かったのですが、その理由は自分事として真剣に取り組んでいなかったので、理解度が浅くなったか、または「要約したり、模写したり、アウトプットまでしなかった」ので、忘却の彼方にいってしまったのかもしれません。

やはり、ちゃんと理解させるにはアウトプット教育が一番ということになりそうです。

5 結論。

このようなインプット・アウトプットの構造を理解すると、真の理解力をつけるためにも、さらに表現力もつけて、自主性ややる気や創意工夫なども身に着けさせるには、僕の構想案である「日本論文プラットフォーム」などで、書く行為の修行の場を与えて、こまめに訓練するのが理想だと思うのです。

まずはお題があったとしたら、要約させます。

その後、型に沿って、意見+根拠などを述べます。

こうして、皆が、読むだけの授業や試験から、書く行為を通じて、アウトプットの大変さを理解しつつ、書く行為によって、読んだ文章を真に理解することにもつながり、意思疎通能力が上がるというカラクリになるのです。

これに加え、知識を身につけるのも大事です。専門知識のインプットなしに、質の高いアウトプットはできませんからね。

ただ、現代文という科目の高得点者でさえ、僕のブログ記事程度の文章(約5000文字)でさえ、ちゃんと理解していないことに愕然としました。(しかも、あとで個別に会話までしているのにです)

これについてはその現代文高得点者が、まるで試験に受かるためかのように、真剣に自分事として読んでいなかったか、要約、模写、アウトプットなどをしなかったため、記憶の定着率が低く、忘れてしまった仮説もありえます。

さて、僕の理念は文科省でさえ誤読しているか、理解しておらず、真の理解力とは難しいものだなぁとつくづく感じます。

最後に、人の文章をちゃんと理解したいなら、要約してみましょう。

または、人に説明してみましょう。

その作業を怠って、ちゃんと理解したとは思わない方がいいです。

やはり、人の意見を理解したり、聞くときは、前提知識や語彙力は当然として、その概念が頭にあるかないか、ない場合は、真剣に自分事としてちゃんと理解しようという姿勢が大事ということです。

だからこそ、タイトルにあるように、僕は「人が「読みました!」」という言葉は怪しいと最近、疑うようになっています。

僕の文章(特に、内容が長く高度)をちゃんと完璧には理解していないし、記憶もしていないんだろうなぁと。

僕の文章をちゃんと理解していない人と、議論するとき、がっかりします。

なぜなら、書いてあることを何回も聞かれるからです。

意思疎通とは難しいです。書いてあったり、言ったことでも、相手は忘れていて、伝わっていないことがありえるからです。

最後に、今回の記事の文章は易しめで、4441文字です。

ではこの辺で。(4441文字)

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・Youtube動画などを基にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。

最新情報をチェックしよう!