どうも、武信です。(No234)
この文章は以下の記事を、士業の知人にリライトしてもらった文章です。
コミュニケーショの効率を高めるには?「コミュニケーションコストが高い「国や企業」は非効率である」
おそらく「元の僕の文章より、読者への伝わり方が変わったか」と思います。
「自分の文章を客観視することが、いかに難しいか?」の証拠と言えるでしょう。
プロの小説家でも、編集者にダメ出しをされ、9割は推敲されまくり、自分の元の原文はなくなったというケースがあると聞きました。
プロでさえ、編集者にかなりのダメ出しをされ、推敲されて、世に出るのですから、素人の僕や、ブロガーの人たちは推して知るべきでしょう。
良く言えば、ブロガーの人達、つまり、誰かに添削されないで、自力で書いている人達は、その人の実力がもろに可視化され、丸裸状態であり、真の文章力が測れると言えます。
悪く言えば、そのままの実力で世に文章を出しており、編集者が不在なので、やはり、プロと比べたら、文章は劣ることになります。
今回は、この話を実例の文章を出すことで、また、僕と士業の人の文章を比較することにより、「いかに僕たちが自分の文章を客観視できないか?」を理解するための一助として、参考になればと思い、載せました。
「自分だけは編集者なんて要らない!」と思う人も、ぜひ、一度は読んで比べてみて欲しいと思います。
ちなみに、この士業の人の文章が完全に正解かどうかは分かりません。
0 士業の人のリライト文章実例。
では載せます。
突然ですが、「コミュニケーションコストって何?」と思った人もいるでしょう。
コミュニケーションコストとは、「コミュニケーションには、労力がかかる」という意味です。
今回は、コミュニケーションの労力が高いと、意思疎通で時間や手間がかかりすぎて、「国や企業の組織運営において効率が悪くなる」という話についてです。
今回、このテーマについて話していきます。
また、理想のコミュニケーションのあり方についても言及しました。
「コミュニケーションコスト」で悩んでいる企業などでは役立つ知識でしょう。(興味ある方は続きをお読みください。正直、有料レベルの情報かもしれません)
1 世の中においてコミュニケーションは必須である。
突然ですが、世の中においてコミュニケーションは必須です。
日本国や日本企業であれば、基本的に日本語、国語でコミュニケーションします。
例えば、日本企業であれば報連相はしますし、会議でも議論において、意思疎通(情報の共有や新しいアイデア発想の目的などに)を行います。
なお、コミュニケーションは、たとえIT 化やAI化がかなり進み、意思疎通が思考しただけで伝達できる将来がくるまでは簡単になくなりません。
もちろん、IT化によって情報の共有はしやすくなりました。
例えば、皆が、一斉に見ることができる掲示板やサイトなどを作ることができます。
しかも、情報は、現在進行系で更新・変更可能です(紙の時代では、書籍や書類が共有手段でした)
さらに、IT化により情報の共有がしやすくなった例として、企業のサポートもFAQ(よくある質問)があげられます。
まず、FAQに誘導し、見てもらい、それでも分からない場合に限り、電話サポートをすることでコミュニケーションコストを下げています。
これらの情報を頭に入れた上で次に進みます。
2 そもそもコミュニケーションとはお互いに理解し合えるかが重要事項である。
まず、このコミュニケーションの根本は日本語であり国語です。
本題に入りますが、「日本語・国語教育」が良くなかったせいで「日本や日本企業」において、コミュニケーションコストが高くついているのではないかというのが僕の見解です。
なお、コミュニケーションとは、いかにお互いが意思疎通して分かり合えるか、理解し合えるかは重要事項です。
そこで、コミュニケーション能力を分析し、次の4 象限のパターンに分けました。
表1
読解力・理解力(高)
|
| 1 | 2
表現力(低) ______________|__________表現力(高) |
|
4 | 3
読解力・理解力(低)
図1
1(表現力高い)かつ (理解力・読解力高) 2(表現力低い)かつ(読解力・理解力低い)
3(表現力高い)かつ(理解力・読解力低い) 4(表現力低い)かつ(理解力・読解力低い)
このうち、3の「表現力低い、理解力・読解力高い」層をたくさん生み出してきたのが現代文教育なのです。
というのも、現代文は読解に比重が置かれ、しかも分かりにくい文章で書かれています。
しかし、この世に分かりにくく話し、書く人がいる以上、この読解力は必要でもあります。(だから現代文を全面的に批判するわけじゃないです)
しかし、問題は現代文ばかりで高評価してきたことです。
現代文のわかりにくい文体や文章に慣れすぎたため、表現でもわかりにくい文章を書く人を量産したのです。
3 の「表現力低い&理解力・読解力高い」人です。
そこでいえることは、小論文もやらせればよかったということです。
というのも、小論文において、分かりにくい文章を読ませて要約させれば、要約力が見られる上に、理解力・読解力も把握可能だからです。
その上で、表現部分でわかりやすい文章を書けているか(しかも内容も重視して)を見るべきなのです。
とはいえ、小論文においてでさえ、分かりづらい表現を評価する採点者がいたとしたら、小論文の良さをまったく理解してないことになります。
さて、上記図1を参照してください。
他の3分野についても述べたいと思います。
1の「表現力高い&理解力・読解力高い」は完璧な人です。こういう人とコミュニケーションするのは楽です。
2 の「表現力高い&理解力・読解力低い」人は、一部限定でいるかもしれません。本を普段読まないので、文章読解力は低いけど、会話上手(営業マンなど)な人たちのことです。
4 の「表現力低い&理解力・読解力低い」人は、コミュニケーションにおいて、お荷物的な存在です。意思疎通で苦労します。
3 政治家と経営の世界。
さて、ここで政治家と経営の世界の話をします。
まず昨今?の政治家は「何を言っているのか?」という内容の正しさより、「どう言っているか?この人の発言は信用できるか?」のイメージの方が、重要視されている気がします。
なぜかというと、多くの国民は政策の詳しい中身について前提知識もないし、理解してないからです。
さらに、政治家は、わかりやすい話をしてないと僕は思います。
その理由は表現力に欠けているか、または国民の理解力不足かでしょう。
ただでさえ政治の話は分かりにくいのに分かりにくい話し方をされたら、国民は誤解することになります。
そこで、イメージでなんとなく選んでいる可能性があります。
しかし、この政治家の分かりにくさは、良い方面にも働きます。
具体例を挙げると、責任を追及されたときです。
責任を追及された際はわざと話を長くし、分かりにくくすれば、相手は理解できないので指摘しづらくなるという例です。
しかし、これは政治家だから許されることであり(本来なら許されませんが)経営の世界においては、分かりにくさは致命的な弱点になります。
相手に高速で理解してもらわないと、意思疎通、意思決定のコストが跳ね上がるからです。
分かりにくい話をする人は、無能の烙印を押されるのです。
ところで、よく上司に対してこう思っている人はいませんか?
「あなたの言っていることは分かりにくく、話が長い」と思っているけど、上司だし、目上だし指摘しづらいと。
しかも、分かりにくく、話が長いと理解するだけで一苦労です。
さらに、それを上司に指摘できないですし、「自分の理解力が足りないのか。。。」と自省することもあれば、「お前の理解力不足だ!」と怒鳴られる可能性すらあります。
しかし、理解力が高い人は、察する力も高いのでなんとか対処できますが、理解力が低い人は対処できず、苦労します。(理解力が低い人はわかりやすくて、話が短くないと理解できないのです)
話を政治の世界に戻すと、意思疎通や意思決定の面から、「表現力が低くても許されてきた」こと自体が間違っていると思えます。(例えば、経営の世界では許されません)
とはいえ、政治の世界は、全部を話すことは無理であり(駆け引きなどで)、曖昧な表現にしたり、お茶を濁したりして、分かりにくさを助長している面もあると思います。
4 理想のコミュニケーションの世界。
最後に、理想のコミュニケーションの世界を考えてみましょう。
世の中には大雑把に分けて、視覚派(目から情報を吸収するのが効率が良い人達)と聴覚派(耳から情報を吸収するのが効率が良い人達)の2種類がいるとします。
視覚派には、文書やネットでの掲示板?で情報を共有します。
聴覚派には、プレゼンの達人みたいな人が音声を録音して皆に共有します。
こうすることで、2種類のタイプに、情報を効率よく共有させることができます。
さらに、前提知識として、何かの企画や意思決定や合意を得るためには、情報を共有しておく必要があります。
それから、その情報を共有するのにも最低限の予備知識が必要になります。
そこで、その予備知識も、視覚派と聴覚派用に文書や本や、音声などで渡します。
このように予備知識を学んで、情報を共有する下地ができたのです。(皆がさぼらなければ、または理解力があれば)
そして、情報を共有し、合意しやすくなり、意思決定のスピードが上がり、従業員も社長も納得して仕事ができ、効率が良くなります。
しかし、ここでさぼる人や理解力が低い人が混じっており、そういう人にはある程度の精度の高い主張の信憑性が分からない、理解できないのです。
そうなると、理解ができない反対派や抵抗勢力が出現します。
さらに、自分の権益や利益や生存が脅かされそう(職を失うや給料が下がるなど)になると、抵抗し始めるのです。
こういう層に対しては、トップに権限をある程度、渡して反対意見を無視し、強引に通す必要もあるのです。
そのような抵抗勢力の言い分まで聞いてたら、改革なんて一向に進まないからです。
このような理由で、トップを中心に、視覚派と聴覚派(またはその中間も)に合わせて情報を共有し、合意をしやすくした上で、明らかな抵抗勢力はスルーして、改革を推し進め、効率の良い組織運営をして、鍛えて生存しなければならないというわけです。
これが僕の考える理想のコミュニケーションです。
TV放送は、聴覚派にはうってつけの媒体ですが、視覚派には効率が悪いのです。(ただしテロップもあり、視覚派も理解しやすくはなっています)
しかし、視覚派と聴覚派とその中間派などの割合を、僕は知りません。
これらの認知特性によって、コミュニケーションの不通ができているとも言えます。
聴覚派は、僕の文章なんてまず読みませんから。
というのも、ある程度、的を射ていることを言っていても、聴覚派は文章を読むのが得意ではないので読まないからです。
したがって、聴覚派まで伝えたければ、YouTube やツイキャスなどでも同時に伝えないといけません。
さて、僕の思想を知ってもらうには、本当は音声放送もやるべきですが、僕はあまり喋るのが得意ではないので、乗り気ではないのと、時間が存分に割けないのもあってやっていません。
世の中を変えるにはきちんと理解してもらうことが始まりです。
しかし、たとえ理解してもらえても、自分の権益を脅かす人には抵抗する人たちが多いのです。
だからこそ、世の中はなかなか変わらないのですね。
ではこの辺で。(5239文字)
このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。
あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。