理解力とは?「小論文の神様「樋口祐一」氏と、僕のアイデアが同じだった!」

どうも、「ホントのメディア」~自由人のための起業・フリーランス・副業塾~運営者の武信です。(No528)

「小論文の神様「樋口」氏と、僕のアイデアが同じだった!」というタイトルで話していきますね。

どういう意味で、似ていたのか?興味がある人は続きをお読みください。

読解力の肝となる論点であり、重要事項です。

1 僕の記事。

まず、僕の記事を貼ります。

https://hontonomedia.com/whatisunderstandingdontbelievethewordiread/

「理解力とは?「人が「読みました!」という言葉を信じてはいけない」」というタイトルです。

以下、一部、引用します。

僕のブログ記事を「読みました!」と言う人でも、きちんと理解していないことに遭遇し、僕はその言葉を怪しむようになりました。

例えば、僕の構想案「日本論文プラットフォーム」やその他の複雑な記事は、おそらく、読んだという人でも、「僕の思っているようには読んでいない可能性が高い」ということが判明したのです。

僕のブログ記事の多くは、けっこう、ちゃんと理解されていないことが多く、読んだ人に感想を聞くと、書いてある内容でも質問してきたりします。

書いてあるのに、それを質問したり、聴いてくるということはその部分をその人は飛ばしたか、ちゃんと理解していないか、覚えていないのでしょう。

または誤読されたりもします。

そして、個別に、会話などで解説すると理解されることもありますが、実はその理解さえも怪しかったのです。

個別に解説すれば、さすがに僕の意図は伝わっていたかと思いきや、伝わっていなかったのです。

つまり、人が「僕の文章の意図などを理解した!」と言っていたとしても、相当怪しいのです。

現代文高得点層ですら、この有様だとしたら、現代文という、「理解力に重点を置き、アウトプットする前にちゃんと人の文章を理解する科目」という性質さえ、怪しく思えてきます。

僕が思うに、人がちゃんと理解するときというのは、「他人の文章を要約したり、模写したとき、またはアウトプットしたときなのではないか?」と考えています。

僕も、ビジネス書を相当、多読してきて、ちゃんと理解したというときは、「文章を写したときか、要約したときか、文章に対して意見を言うアウトプット行為のとき」です。

そこまでやって初めて、人の意見をちゃんと理解したと言えるのでしょう。

それまでは何となくうろ覚え状態のときも多いのです。(特に、複雑で前提知識が少ない内容の文章のとき)

つまり、マーク式で解答させたり、「ただ読みました!」という人の意見は大して当てにならず、本当に理解させるには「要約、模写、アウトプット」が必要ということになるのです。

ここから、現代文なんて科目は大して効果がない、または本来の役目を大して果たしておらず、それよりも「小論文で要約させたり、アウトプット行為をさせる」、つまり、僕の構想案である「論文プラットフォームで書く行為をした方がいい」ということになります。

やはり、受け身の読むだけの行為だと、記憶の定着率も低いですし、ちゃんと理解したか?も疑問符なのでしょう。

さらに、読み書きだけでなく、話す聞くの際も以下のような状態が理想です。

人に理解したかどうか?確認する最適の行為は、説明した後、その人に「要約させて、説明させる」ことです。

そこで、その人がきちんと理解していて、記憶していたら、ちゃんと再現して説明できるはずです。

それができなかったとしたら、理解していません。

このように、人の理解力はかなり怪しく、ただ説明だけの指導では、効果が弱いのです。

たまに、人に説明だけしたら、もう完全に相手に全部伝わったと思い込んでいる人がいて、「何でわからないんだ!」と怒る人もいますが、それは一度の説明で完全に理解できる人も少ないですし、相手に説明させるという確認行為をしない指導の仕方も悪いのです

略。

こうして、皆が、読むだけの授業や試験から、書く行為を通じて、アウトプットの大変さを理解しつつ、書く行為によって、読んだ文章を真に理解することにもつながり、意思疎通能力が上がるというカラクリになるのです。

これに加え、知識を身につけるのも大事です。専門知識のインプットなしに、質の高いアウトプットはできませんからね。以上、ここまで。

2 記事からの引用。

記事を貼ります。

https://toyokeizai.net/articles/-/321472?utm_source=Twitter&utm_medium=social&utm_campaign=auto

「文章がヘタな人は自分の思考が整理できてない 小論文を書き、リアリティを作り出してみよう」というタイトルです。

2019/12/26 15:00に投稿した記事のようです。

僕が投稿したのは、2019年12月26日の午前中だったかな。文章自体は前日(12月25日には出来上がっていました)

僕はこのアイデアを、樋口氏の本を読まずに編み出しました。

ですが、既に、樋口氏は本で、書いていたのです。2020年の1月22日に、本屋で確認しました。

以下、引用します。

79か国・地域の15歳約60万人を対象とした、国際学習到達度調査(PISA)の結果が12月3日に公表され、日本は「読解力」が前回の8位から過去最低の15位に急落したことがわかりました。

小論文の神様樋口裕一さんの新刊『「頭がいい」の正体は読解力』(幻冬舎新書)は、まるでその結果を予見していたかのように、「第一章 なぜ日本人の読解力が落ちているのか」で始まります。

さらに樋口さんは、「文章を読むだけでは読解力はつかない」とも指摘。

では、効率的に読解力を鍛えるにはどうすればいいのでしょうか?

書けない人は読むこともできない

読解力をつける第二の方法にして、切り札ともいうべき決定的な方法は、文章を書くことだ。

読解力をつけるために文章を読んでいるだけでは、いつまでたっても限界がある。

前にも述べた通り、野球やサッカーなど、いくら見方を覚えても、実際にプレイしなければ、深く見ることはできない。

テレビ中継を見続けていれば、解説者のまねをしていっぱしのことを言えるかもしれないが、そこには何の裏づけもない。

文章もまずは書いてみる必要がある。書いてこそ、正確に読み取れるようになる。

文章を書かないまま、文章を読み取る練習をしているのは、いってみれば、サッカーを実際にはプレイしないままサッカーの見方を習っているのに等しい。それで力がつくはずがない。

言うまでもなく、文章を書くことと読むことは表裏一体の関係にある。

読んでこそ書ける。読んでいなければ、知識も言葉も定着していないので、書けるはずがない。

だが、書こうという意識があるからこそ、文章を読むとき、それが自分のものになる。

感想文やレポートを書かなければいけないのでしっかりと文章を読む。書こうとしなかったら、文章を読んでも通り過ぎてしまう。書くことによって、物事が定着する。

実際に書いてみると、文章の構成がわかる。書いている人間の気持ちがわかる。文章を組み立てるというのがどういうことなのかもわかる。

様々な表現が自分のものとして理解できる。論理の組み立ても理解できるようになる。

いや、そもそも書くことは思考をまとめることにつながる。

何となく自分の意見が正しいと感じている。ところが、それを文章にして人にわかってもらおうとすると、ふと手が止まる。

次々と自分の考えに穴があることに気づいて、そのままでは説得力がないことを改めて知る。そんな経験は誰にでもあるだろう。

つまり、書くとは、自分の漠然とした考えに形を与えて、他人にもわかるようにする行為なのだ。

したがって、書くことによって考えに筋道が生まれる。

頭の中にある連続的な思考を整理し、分析的にとらえなおし、思考の塊を言葉に改め、それを文にして論理的につなげて、一つのまとまりのある文章にしていく。

それはまさに自分の思考を外からも見えるものにしていく作業なのだ。書くことによって、もやもやしていたものが明確に意識化される。

時に、自分がどこに疑問を感じていたのかがわかる。

したがって、文章を書くことができないということは、自分の思考を外に示すことができないということになる。

もっと言えば、実際には思考を自分のものにしていないに等しいということにもなる。

そして、それは文章を書くことによって、思考できるようにもなるということを意味する。

言い換えれば、文章を書く練習をするということは、自分の考えを明確にする練習、もっとはっきり言えば、しっかりと考える練習になる。

何か解決できない問題にぶつかったときには、パソコンを出して、問題点を書き始める。

書くという行為は、話す行為と違ってあとから直すことができる。

つまりは、自分の思考をいったん文章にしてみて、それを振り返り、そこにあいまいな点や間違った点があったら、それを消して改めることができる。

話すだけであれば、話した内容を忘れてしまう。30秒も話をすると、話し始めたときにどのようなことを語ったか、しばしば忘れてしまうだろう。

だが、文章であれば、書き始めた部分を読み返せばよい。そうすることによって、自分の思考の跡をたどることができる。

そうして、何度も書き直し、時にはネットや本で調べて自分の考えを補強したり、ほかの人の意見を参考にしたりして、完成度を高めることができる。

それを繰り返すことは、文章を書く練習になるだけではない。読解力が増すだけではない。思考力が高まり、様々な出来事についての自分の意見を持つようになるだろう。以上、ここまで。

ちなみに、本の中では、4ページに渡って、詳しく書かれており、この記事とは違った文章になっています。(記事用に、短く、編集したのでしょう)

「「頭がいい」の正体は読解力」

3 僕の考察。

「書く行為によって、読解力も高まるのだ!」という、ある意味、画期的な視点の主張でしょう。

僕もそれに気づき、樋口氏も本に既に書いてあったのです。

ますます、僕の構想した「日本論文プラットフォーム案」がいかに有用なものか?の証拠がまた一つ増えたと言えるでしょう。

「論文を書く行為」(小論文含む)は、かなり頭の体操になり、いろいろな方面に、能力を波及させていきます。

利点は以下。

1 主体性ややる気が上がる。(論文教育により、有名大学合格者が増えた事例がある)

2 アウトプットを意識して、インプットができる。

3 実際に書く行為によって、書く側の気持ちもわかり、読解力さえ上がる。

4 要約や書く行為によって、さらに本や文章の理解度・定着度が深まる。

5 ちきりんが指摘するようなSNSの履歴にまでつながり、実力が可視化されやすい。(履歴書代わりとなる)

欠点は以下。

1 論文を採点するのがかなり難しい。(実力ある採点者の人手不足や、客観性や公平性の担保の難しさや、手間暇がかかる)

2 日本論文プラットフォームを作っても、替え玉受験をされるリスクがある。

3 訓練でどこまで伸びるかは、人それぞれであり、向いていない人もいそう。

などです。

ではこの辺で。(4834文字)

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・Youtube動画などを基にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。 

参考・引用文献。

「「頭がいい」の正体は読解力」

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