どうも、武信です。(No36)
才能論シリーズの記事です。(どんどん洗練されていきます)
皆さん、才能の正体について考えたことはありますか?
才能とは「生来備わっているもののことを言う」のであり、磨けるものではないという主張を本で読み、悩んでいますw
才能とは何か?興味がある人、例えば「グリット(やり抜く力)」などに興味がある人と相性が良い記事だと思います。
今回はPART2です。
1 才能の公式
僕は以下の記事で、才能とは分野別(大学受験やスポーツなど多数)において成功(一発屋ではなく持続的成功と定義)するために遺伝5割(「上達の速さとセンスの良さ」が1割、猛烈に努力ができるが4割)×環境4割×運1割の要素が求められると書きました。
「才能とはいったい何なのか」
2 センスと情熱、苦痛度の観点から
上記の方程式から、さらに言いたいことをまとめます。
この方程式をさらに眺めたり、他者の意見を見たところ才能とは情熱であるやセンスは「知識+経験」であり、「どのように物事を見るか?」という言及がありました。
いろいろと考えた結果、センスの良さはある程度は鍛えられるのでは?という仮説を僕は持っていますが「知識+経験の蓄積」によって「物事への見方が変わる」とすればセンスはある程度、磨かれるとは言えるでしょうね。
そして情熱についてですが情熱とは精神論すぎて、よくわからないのです。
好きと同じなのでしょうか?それとものめり込める素質ということでしょうか。
好きやのめり込める素質だと仮にすると猛烈な努力が続けられるのは情熱(好きやのめり込める素質など)があるからだとも言えそうですが僕はこの意見よりも違う見解を持っています。
おそらく情熱があるから(好きだし、のめり込める素質があるから)猛烈な努力ができるという意見もありえますが僕はある分野において他人よりも「苦痛度が低い」という表現をよく使います。
大学受験勉強を心底、情熱をもってやっている人(好きで、のめり込んでいる人)ってかなりの少数だと思います。
では偏差値70近辺までどうやって到達したのか?といえば数学、物理学、現代文でいえばセンスがあるという曖昧な表現になりますし、センスがあったので成績が伸びたとも言えますが勉強に対する「苦痛度が低い」ことも関係があると思うのです。
つまり猛烈な勉強をしている人の姿は他人から見たら「どうしてあんなに勉強できるんだ?」と驚かれると思うのですが当人からしたら「苦痛度が低い」または情熱があり、やっているに過ぎないわけです。
3 僕の場合
僕の事例を書きますね。
僕の場合、運動は苦手ではないですが例えばテニスであれば錦織選手並みに到達できるかといえばまったく自信がありません。
なぜなら苦痛度が高いからです。そもそも僕は身体を動かすより頭を動かすのが好きであり、後者の方が苦痛度が低いのです。
週に2回、強制的に毎回1時間早歩きの散歩を課していますがそれは習慣化されていますが強制的にやっています。
とてもじゃないですが強制しなければやらないと思います。つまり「苦痛度が圧倒的に高い」のです。
対して文章を書いたり、企画案を考えたり、勉強をすることは全者の2つ(文章と企画)は好き・情熱とまではいかないです。
つまり得意というか勝手に発想が浮かぶのでやっているのですが勉強は苦痛度が運動と比べたら低いのでその道しかないと思えばやれると思います。
要は「人には向き・不向き」があり、才能があるとはその分野に向いている人、要は「苦痛度が低い」か「情熱があること(好きやのめり込める素質など)」なので猛烈な努力ができる人で遺伝の4割を占めている人と言えそうですね。
1割の「上達の速さ」と「センスの良さ」は生まれ持ったものもあればセンスのようにある程度は磨けるものもあるかと思います。(センスの良さがある程度、磨けるは僕の仮説です)
よって明らかにその分野に向いていない人に「その仕事を勧める」のは罪なのです。
苦痛度が高く、または「情熱があり、好き」だけど得意までにはいかない(下手の横好き)人は向いてないので別の進路を探した方がいいということです。
僕は将棋は好きですが1級どまりなので好きレベルであり、情熱まではいかないし、猛烈に努力ができるか未知数です。
年齢的にもプロになるにはもはや手遅れだし趣味レベルです。
以上、才能の分析の深堀りでした。
4 向き不向きと職業選択
ここで話が飛びます。
向いている人はその分野に向いていることに無自覚なことが多いです。
明らかにその分野に向いてない人にまで「頑張ればできるよ」とか言う人もいます。
僕は向いている人には「頑張ればできるよ」はOKな言葉だと思いますが向いてない人にはいたずらに時間を消耗させるので罪な人だと思います。
人には向き・不向きがあるのですから向いている分野で頑張ればいいのです。
そして世の中、助け合いであり、向いている人同士いろいろな職業で成立しているのです。
職業選択においては僕の才能論の視点から見て選ぶと賢いと思います。(苦痛度が低いのであれば猛烈な努力が続けられる可能性が高まりますから)
最後に到達点の話もありますがそれは天才の話であり、才能の有無の結果、到達したという結果論です。
高い到達点に達することができるのが才能という論は結果論に過ぎません。
以下の記事に「天才の定義とは?」が書かれているので、参考にしてください。
5 まとめ。
最後に、まとめをします。
1 才能とは分野別(大学受験やスポーツなど多数)において成功(一発屋ではなく持続的成功と定義)するために遺伝5割(「上達の速さとセンスの良さ」が1割、猛烈に努力ができるが4割)×環境4割×運1割の要素が求められること。
2 センスは「知識+経験の蓄積」によって「物事への見方が変わる」とすればある程度、磨かれる仮説を僕は持っている。
3 おそらく情熱があるから(好きだし、のめり込める素質があるから)猛烈な努力ができるという意見もありえますが、僕はある分野において他人よりも「苦痛度が低い」からこそ、「どうしてあんなに勉強しているんだ!」状態の人になりえると主張している。
4 僕は運動は苦痛度が高く、一流にはなれないと自覚しており、企画や文章は得意?だから、または苦痛度が低いからやっているだけ、つまり人には向き・不向きがあり、苦痛度が高い分野で戦うべきではないと主張。
5 職業選択においては苦痛度が低く、自然に努力ができてしまう分野を選ぶべきであり、世の中は助け合いなので向いている仕事同士で分担しながらやっているので「向き・不向き」を考えて選べばいいと主張。
ではこの辺で。(3104文字)
このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。
あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。